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てあん泰安

三面が海に囲まれている泰安郡は海外からの文物を受容するための重要な窓口の役割を果たすとともに 外冦の侵略が頻繁にあった場所でもありました。「泰安」という地名は「国泰民安」を略したもので、泰 安半島の海が静かで平安でこそ国が安全で民衆も安心して暮らせるという願いが込められていました。 このように泰安は軍事的拠点であるとともに中国の使臣をはじめて迎え入れる所であり、沿岸航路を利 用して税として納められた穀物を運搬する船が行き交う要港でした。

태안읍성

使臣を迎えた街 てあんうぷそん泰安邑城てあんけくさ泰安客舎もげだんきょんいじょん( 牧愛堂, 憬夷亭)

태안읍성전경

泰安邑城

朝鮮王朝初期邑城の築城技法を確認できる重要な 遺跡として評価されている泰安邑城は朝鮮王朝期 の邑城の中でかなり早い時期に築城されたもので す。邑城は海岸の防禦のために築かれ、朝鮮王朝 初期より行政の中心としても大きな役割を果たしま した。.

現在一部だけ保存されていて、その城壁の横には 昔、官衙建物の泰安客舎がありましたが、現在は泰 安邑事務所になっています。中国から船に乗ってや ってきた使臣たちが 安 あぬん興港に入港し、一番最初に 接する地が泰安県でしたので、その迎賓館だった泰 安客舎の大きさは相当のものだったと考えられてい ます。


所在地 | 忠清南道泰安郡憬夷亭3キル43-3
時期 | 朝鮮王朝初期
用途 | 防禦

牧愛堂

朝鮮王朝期の泰安県官衙の政務を司る建 物でした。民衆を愛しつつ上手に率いるという意味 を込めて牧愛堂と名付けられました。
以降1970年まで泰安面事務所として使われ、現在 は泰安郡民の憩いの場として活用されています。


所在地 | 忠清南道泰安郡白華路54
用途 | 行政

憬夷亭

は泰安客舎の一部で行政庁の入口でもあり ました。朝鮮王朝定宗の代に客舎に宿泊する使臣 が休憩できる空間として設けられました。
「憬夷」とは遠くから航海して渡って来た使臣の無 事を祈るという意味で、中国使臣が安興港を通じて 上陸する際の休憩場所として使われました。


所在地 | 忠清南道泰安郡憬夷亭2キル1
用途 | 休息

태안읍성

泰安客舎の横に位置する てあんひゃんぎょ泰安郷校

泰安郡官衙において運営した泰安郷校は泰安郡官 衙が位置した泰安邑事務所近くにあります。郷校は 一般的に在地士族の子弟が主に出入りする所でし たので、邑城から多少東側に離れた場所に位置し ました。しかし朝鮮王朝期後期に教育機関の役割 が弱まった頃に現在の位置に移転して来たものと 考えられます。


所在地 | 忠清南道泰安郡白華1キル7
時期 | 1407年(太宗7)
用途 | 教育、祭祀

태안읍성

朝鮮のために命を捧げた中国の名将を祀る すんいさ崇義祠

崇義祠は蘇 そじゅ 州賈 か し 氏の三代、賈 かゆやく 維鑰・賈 かさん 祥・賈 かちむ 琛 の忠節と孝心を祀るための祠堂です。賈維鑰は中 国の高名な将軍で、1592年に壬辰朝日戦争が勃発 するや、朝鮮に援軍にやって来て日本軍を撃破す る大きな戦功をおさめ帰国しました。1597年に再 び丁 ちょんゆちぇらん 酉再乱が勃発すると息子の賈祥将軍と孫の賈 琛を連れて、また朝鮮にやって来ました。賈維鑰と 賈祥は朝鮮の軍隊とともに日本軍に立ち向かい、 現在の釜山における戦闘で戦死しました。戦後に 孫の賈琛一家は中国に帰国するために泰安までや って来ましたが、船の運航が難しく帰国できずに 泰安に定着することになりました。その子孫たちは 「蘇州賈氏」という家門を守り続け、一度も日本の 方向を向いて座ったことがないと伝えられていま す。


所在地 | 忠清南道泰安郡南面チョットルキル415
時期 | 1851年(哲宗2)
用途 | 祭祀