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儒教建築に宿る日常の文化
古宅スティ

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儒教建築に宿る日常の文化
古宅スティ

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牙 あさん 山、礼 いぇさん 山、扶 ぷ よ 餘、舒 そちょん 川、論 のんさん 山、洪 ほんそん 城

儒学者たちの生活そのものと言える住居と学びの場には彼らが追求した大切な価値観が残されていま す。そこには建築様式だけではなく、彼らの生涯や生活様式、態度や価値観などを感じ取ることができ、 現在でも子孫たちが代々古宅を守り続け、昔の姿を大切にしています。
自然と建築の調和は先祖たちが家を建てる時に最も重要に考えた要素でした。また建物の配置には格式 や身分などの秩序を守る儒教思想がよく表れています。

유관순열사유적지

悠久の歴史を誇る民家, 清 ちょんべんに 白吏の生活空間 めんしへんだん 孟氏杏壇

유관순열사생가 유관순열사사진

孟氏杏壇は韓国の民家の中で最も古い姿をとど めたもので、黄 ふぁんひ 喜とともに朝鮮王朝の名宰相に数 えられる孟 めんさそん 思誠の家です。元々は高麗王朝末の名 将だった崔 ちぇよん 瑩将軍が住んでいた家ですが、孫娘が 孟思誠と結婚し、孟一家がここに定着するように なりました。孟思誠は高位の官職に就いていなが ら、笛を吹きながら黒い牛に乗って移動したと伝 えられ、韓国史を代表する清白吏(清廉な官吏)とし て知られています。

ここでは高麗王朝末期の不穏な時期に後世のため に人材養成に力が注がれました。またそばには官 衙と郷校があり、教育のみならず地域の有力者が 集まり、現実的な問題を討論し解決策を模索する 場所でもありました。

古宅や宗宅ではなく, 「杏壇」と呼ばれる理由

この家が特別に「杏壇」と呼ばれるのは、ここに樹齢600 年を超える銀杏の大木がふたつ植えられているからです。 「杏壇」とは元々孔子が銀杏の木の下で弟子たちを教え たという話に由来しており、 孟思誠の父親の 孟 めんひど 希道がこ こで学問を研鑽し、住民を集めて講学したため、「孟氏杏 壇」と呼ばれるようになりました。


所在地 | 忠清南道牙山市排芳邑杏壇キル25
時期 | 朝鮮王朝初期
用途 | 住居、祭祀

이동녕 선생 생가지

朝鮮時代にタイムスリップしたような 伝統村で一夜を あさんうぇあむ 牙山外巌民俗村

팔괘정전경임리정

士大夫古宅の珍しい庭園

霊 よんあむ 岩家とも呼ばれる建 こんじぇ 齋古宅は朝鮮王 朝粛宗代の文臣だった外巌・李柬(1677- 1727)が生まれた家です。建齋古宅は朝 鮮王朝後期の士大夫の家の典型的な建 築ですが、時の主人が日本庭園に心酔し ていたため、韓国と日本の造園技術が混 合した庭園が誕生しました。サランチェ (主人の居間)の庭園は樹木と水の空間が 庭の余白を埋め、この上なく華麗に仕上 げられています。


外巌村は礼 いぇあんいし 安李氏の李 いじょん 挺一家が移住し、定着した 村ですが、徐々に子孫たちが勢力を伸ばし、人材を 輩出したため、両班村の格式を備えるようになりま した。李挺の6代目にあたる李 いがん 柬の号が「外 うぇあむ 巌」だ ったことにちなんで「外巌村」と呼ばれるようにな りました。ここは何よりも代を重ねた子孫たちが住 民として定着しており、過去と現在が混ざり合っている点に特色があります。一つの村に両班の住宅 と草葺屋などの庶民家屋が500年の歳月を経た現 在でもよく保存されています。


所在地 | 忠清南道牙山市松岳面外巌民俗キル42-7
時期 | 朝鮮王朝初期
用途 | 住居、教育、祭祀

림서원,임리정,팔쾌정 전경

女主人の力で守られた護国聖地 すだん 修堂古宅

팔괘정팔괘정임리정

傾きかけた家門を立てなおした女主人

この家をを建て、切り盛りしたのは淑 夫 人、 全 ちょんじゅいし 州李氏です。20歳の時に夫と死別した彼女は 1636年に勃発した丙 びょんじゃほらん 子胡乱の後、夫方の祖父の墓 地が近くにあるここに定着しました。淑夫人は一人 で息子や孫を育て上げ、官職に出世させました。彼 女は80歳を超える生涯を終えるまで一家の生計を 守り、家門を中興させました。

一般的な両班の家はヘンランチェ(大門に続いた建 物)がサランチェ(主人の居間)を保護し、アンチェ (母屋)はサランチェよりも奥に置きます。しかしこ の家は反対にアンチェがサランチェより前に出て います。これは当時傾きかけた家勢を立てなおし た女性の役割と位置を反映したものと見られます。 修堂古宅の構成員の独特な生き方が建築物にまで 影響を与えた意義深い事例と言えるでしょう。

所在地 | 忠清南道礼山郡大述面上項方山路181-8
時期 | 1637年(仁祖15)
用途 | 住居

ソンビ(儒学者)が亡くなろうとも軽 んずるなかれ。 護国聖地になった修堂古宅

修堂・李 いなむぎゅ 南珪先生をはじめ、その息子の 李 いちゅんぐ 忠求、孫の李 いすんぼく 昇馥にわたる3代が朝鮮末期 の日本の侵略という民族的危機に立ち向か い、ひ孫の李 いじゃんうぉん 章遠は韓国戦争に出征して戦死 しました。この4名は国立顕忠院に埋葬されて いますが、4代にわたり国立顕忠院に墓地が あるのはこれが唯一の事例です。

림서원,임리정,팔쾌정 전경

校村郷校村、人々のプライド てふんひゃんぎょ 大興郷校

옥년봉팔괘정

大興郷校は1405年に儒教の賢者の位牌を奉安し、 地方民の教育と教化を目的に創建されました。 大 興郷校が位置する校村郷校村は70名余りが居住 する、おだやかな田舎の村です。

大興郷校は現在も教育活動を展開しており、児童 教育がある日は村人たちは朝から忙しく子供たち を迎える準備をし、様々なプログラムを提供しま す。

600年の歳月を郷校とともにした 銀杏の木と村人たち

校村郷校村の入口には村を守るように銀杏の 巨木が立っています。樹齢が600年余りの銀 杏の木にはケヤキの木が根を下ろし、二つの 木が一つの木のように合わさっている姿はな かなかの壮観です。この銀杏の木は大興郷校 を建てたときに植えたものと伝えられ、村人 はこのケヤキの木を抱く銀杏の木を村を守る 守護神としてあがめています。


所在地 | 忠清南道礼山郡大興面校村郷校キル88
時期 | 1405年(太宗5)
用途 | 教育、祭祀

림서원,임리정,팔쾌정 전경

明皇帝から贈られた孔子像が奉安されている ちょんやんひゃんぎょ 青陽郷校

青陽郷校が創建された年代は定かではありません が、朝鮮王朝初期にここに既に郷校と文廟があっ たと伝えられおり、現在保存されている建物は朝 鮮王朝中期以降、何度か修理を経たものです。

祭祀を執り行う大成殿には仁祖の代の1627年に明 に使節として赴いた姜 かんそにょ 善餘が明皇帝から贈られ運 んできた孔子像が奉安されています。

所在地 | 忠清南道青陽郡青陽邑郷校キル20-8
時期 | 朝鮮王朝初期
用途 | 教育、祭祀

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草葺家屋, 瓦葺家屋, 韓国伝統建築, 日本式建築 ゆんなむそく 尹男石家屋

尹男石家屋は植民地期に韓国伝統建築の技法と 日本の伝統木造建築の技法が混ざり合っていま す。この家屋は湖西地方の富農の住宅として当時 の時代的特徴と技法がよく表現されていますが、こ のような家屋は余り残されておらず、歴史的価値 が高いものです。特に2階建ての別棟は青 ちょんやん 陽を訪れ る外国人や中央の官僚の宿としても提供されまし た。

この家屋は植民地期に滅びかけた「恩 うんさんびょるしんじぇ 山別神祭」 に必要な予算を支援する舞台となり、「恩山別神 祭」に使われる玉の輿などを製作した由緒ある古 宅です。またここはパンソリ名唱の忍 いんだん 堂・朴 ぱくどんじん 東鎮の 初舞台の場所であり、長期間滞在してパンソリを 研究し、発声法を研鑽し、芸能人としての精神的覚 醒を成し遂げた古宅としても知られています。

特異な宿泊体験空間

古宅スティに利用されている回 ふぇごんふぁんとばん 乾黄土房は100%黄 土で仕上げた草葺家屋で、台所には伝統的な壁暖 炉が設置され、二重のオンドル(伝統的床暖房)によ って2、3時間横になるだけで、疲労がすっきり回復 します。時計展示室には尹男石の祖父の代から絶え ず集めて来た、1790年代から1950年代までの時計 のコレクションが760点が展示されています。アナロ グ音楽鑑賞室ではプリアンプやパワーアンプ、ター ンテーブル、テクニクススピーカーなど備えられてい て、LPレコードで音楽を鑑賞できます。


所在地 | 忠清南道青陽郡長坪面長寿キル13-8
時期 | 朝鮮王朝後期
用途 | 住居

목덕사

朝鮮の最後のソンビ(儒学者)を祀る もどくさ 慕徳祠

모덕사

慕徳祠は朝鮮後期の性理学者であるとともに愛 国者だった勉 みょなむ 菴・崔 ちぇいっきょん 益鉉先生が生活した古宅に 設けられた祠堂で、多くの書籍を保存している蔵 書閣をはじめ、様々な遺物が展示されています。崔 益鉉は幾たびの流配を受けた、苦難に満ちた生涯 を送りました。興 ふんそんてうぉんぐん 宣大院君の当時の政治運営を批 判し官職を追われ、日本との条約締結を激しく非 難し、黒 ふくさんど 山島へ流されました。

1905年の日本との 乙 うるさ 巳条約が締結されるや淳 すんちゃん 昌にて義兵を率い、日 本軍に抵抗しましたが逮捕され、対馬に流されま した。対馬に連行された時には「ウェノム(日本野 郎)の土は踏まない」と言って釜山草 ちょりゃん 梁の土を靴底 に敷き、「敵軍から与えられるものは食べられな い」と言って断食し、結局殉国しました。


所在地 | 忠清南道青陽郡木面ナブンドンキル12
時期 | 1913年
用途 | 祭祀

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71種類の宗家調理法を受け継いで来た さうん 士雲古宅

洪城郡山城里のウォンゴル村に入ると池と松林に 囲まれた美しい古宅に出会えます。「空に浮かぶ雲 のようなソンビ」を意味する「士雲」のほか、「花の 雨が降る東屋」を意味する「雨花亭」という別名が ある士雲古宅は12代もの間、家門を受け継いで来 た楊州趙氏の宗家です。中にはサランチェ(主人の 居間の棟)とアンチェ(母屋)など5棟の伝統家屋が あります。サランチェの板の間の下には「天下太平」 という文字が刻まれており、訪問客を温かく迎えて くれます。宿泊も可能で、背後に控える鶴城山の内 浦文化スプキル(林道)の散策もお勧めです。


士雲古宅には宗家の料理レシピを伝承するための 料理書『飲食方文ニラ』が保管されています。これ は1891年に宗家で受け継がれて来た料理法を宗 家夫人の全 じょにいし 義李氏が整理したものです。自家製酒 の作り方、おかずの作り方、料理の蒸し方など、合 わせて71種類の調理法が記載されています。特に ほの甘い五味子汁によく熟れたキュウリを添えたグ クス(麺)などはこの地方特有の味を伝えるレシピで す。


所在地 | 忠清南道洪城郡長谷面洪南東路989-22
時期 | 19世紀中盤
用途 | 住居

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朝鮮王朝の王妃4名を輩出した ぷよよふんみんし扶餘驪興閔氏古宅

부여여흥민씨고택팔괘정임리정

驪興閔氏が輩出した朝鮮王朝期の王妃

うぉんぎょん元敬王后
朝鮮王朝第3代太宗の王后


いにょんいにょん仁顕王后
朝鮮王朝第19代粛 すくちょん 宗の継妃


みょんそん明成皇后
朝鮮王朝第26代王、
大韓帝国皇帝高 こじょん 宗の正后


すんみょんひょ純明孝皇后
大韓帝国第2代皇帝純 すんじょん 宗の正后


扶餘驪興閔氏古宅は朝鮮後期の士大夫家の建 築様式を残しており、現在は伝統建築の体験 施設として活用されています。

家屋構造は嶺南地方(慶尚道)においてよく見ら れる翼舎の形態を呈していますが、内部は湖西 地方(忠清道)に典型的な構造で、地域的特色が 混ざり合った特異な建築構造になっています。

朝鮮王朝期に王妃4名を輩出した名門の驪興閔 氏の始祖として知られている閔 みんちんど 称道は孔子の最 も秀でた弟子だった10名の内の一人の閔 みんちゃごん 子騫 の末裔です。閔称道は高麗王朝中期に中国から 使節としてやって来て、そのまま帰化して朝鮮に 定着したと伝えられています。高麗王朝末期に 驪興閔氏から新興武士家門に娘を嫁がせたの ですが、彼女は後に元 うぉんぎょん 敬王后、 すなわち朝鮮 王朝の太祖李 いそんげ 成桂の息子で第3代王の太 てじょん 宗の王 妃になりました。


所在地 | 忠清南道扶餘郡扶餘邑旺中路87
時期 | 朝鮮王朝後期
用途 | 住居

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性理学の本拠地 むのんそうぉん文献書院

김좌진장군생가팔괘정임리정

性理学を定着させた李 いせく 穡

文献書院が位置する舒 そちょん 川は西海と錦 くむがん 江が出 会う場所であり、海を通じて海外の文物が 流入し、錦江をつたって内陸へと伝播する 入口に当たりました。高麗王朝末期に朝鮮 王朝建国の思想的な土台になった性理学は 舒川を通じて入って来ました。性理学を取り 入れたのは高麗王朝の学者だった安 あんひゃん 珦です が、性理学を朝鮮に完全に定着させたのは 舒川出身の牧 もぐん 隱・李穡でした。


文献書院は高麗王朝末期から朝鮮王朝初期にか けて元にまで文名をとどろかせ、性理学の受容を 先導した李 いごく 穀と李 いせく 穡の親子をはじめ韓 はんさんいし 山李氏の8 名の名だたる賢者を祀る祠堂と教育機関を兼ねた 施設です。牧 もぐんよんだん 隱影堂には宝物第1215号に指定され ている牧隱・李穡の肖像画が奉安されています。


文献書院には先賢たちの高潔な儒学者精神(ソン ビ精神)を体感できる文献伝統ホテルがあります。 一晩宿泊して心身を休めることもできますし、宿泊 客でなくても板の間でお茶を飲みながらくつろいで 頂けます。


所在地 | 忠清南道舒川郡麒山面書院路172番キル66
時期 | 1594年(宣祖27)
用途 | 教育、祭祀

림서원,임리정,팔쾌정 전경

両班家屋で出会う 武班家門の情趣

김좌진장군생가팔괘정

白 ぺぎるほん 日軒宗宅は李 いさむ 森将軍の子孫たちが守って来た宗家です。李森将軍は 肅 すくちょん 宗31年(1705)に武科に及第した後、1727年に訓練大将職を任されま した。李 いいんじゃ 麟佐の乱を平定し、功臣として冊封されました。これは朝鮮王 朝期最後の奮武功臣冊封で、この功労で1700年代初めに白日軒が建て られました。この建物は元々1985年に「李森将軍古宅」として民俗文化 財7号に指定され管理されてきましたが、2012年10月に国家指定重要民 俗文化財「論山白日軒宗宅」に昇格しました。白日軒宗宅と先代が残し た資料を通じて1700年代初めの両班家門の文化とともに畿湖地域の代 表的な武班家門の文化を学ぶことができます。


所在地 | 忠清南道論山市上月面酒谷キル47
時期 | 18世紀
用途 | 住居