
坡平尹氏の家門は湖西地方を代表する名門家として、清貧な生活を志向し、定着した土地の村人のため に率先して弱者救済活動を行い、多くの人々から尊敬されました。
坡平尹氏の中では「白 ぺぎじょんすん 衣政丞」と呼ばれた明 みょんじぇ 齋・尹 ゆんじゅん 拯が代表的な人物です。尹拯は虚礼虚飾を批判し、 一点の曇りもなく堂々と生涯を送りました。その子孫たちも日帝強占期に一切官職に就かず、清廉な姿勢 を貫きました。
性格と行動が清廉潔白で、無欲を貫いた姿勢こそが坡平尹氏の家門の品格をひと際高めています。


最適の学習環境を提供した浄水楼
宗学堂における教育を通じて、坡平尹氏は科挙及第者を 40名以上輩出しました。一つの教育機関でこのように多 くの人数が科挙に及第したことは朝鮮王朝期に類例を見 ないことです。村の風景をひと目で眺望できる浄水楼は自 然の風致とともに学問にまい進する儒学者たちの品格を 実感することができます。
宗学堂は坡 ぱぴょんゆんし 平尹氏の一族の子弟や親戚の子 弟が共に住み、学ぶために建てられた書堂 で、自分たちのみならず近隣の青少年も入 学できるようにし、地域の教育機関として人 材育成の拠点になりました。
ここで尹 ゆんじゅん 拯は体系的なカリキュラムと徹底し た規律に基づく教育で直接子弟を指導しま した。16世紀中盤にこの地域一帯に定着し た坡平尹氏が急速に朝鮮王朝期の名門家と して頭角を現したのも宗学堂の教育活動の 影響が大きかったと言えます。
所在地 | 忠清南道論山市魯城面宗学キル39-6
時期 | 1643年(仁祖21年)
用途 | 教育、住居



村人によって戦火を逃れた家
坡平尹氏の子孫は真面目で質素な生活を 実践し、凶作や自然災害などで飢えに苦し む村人たちを救済し、真の「ノブレス・オブ リージュ」を実践しました。明齋古宅は韓国 動乱の際、人民軍の中隊本部に使用された ため、爆撃の対象となりました。しかし、村 人に対して恩恵を与えた家であるという理 由で無事に戦火を逃れました。
明齋古宅は生涯を草葺家屋で暮らした尹 ゆんじゅん 拯のため に1709年に息子たちが建てたもので、尹拯がしば らく住んでいたと伝えられています。尹拯は生涯官 職に就かず、国王に接見もしないまま、三公(大臣) の地位に上がり、顔のない宰相と称されました。
アンチェ(母屋)を除くと高い塀を設けず、池やサル スベリなどが自然に塀の役割を果たしています。 地勢に手を加えず、余裕を持って建物を配置した 姿は自然を前にしてえらぶらない尹拯の気品を彷 彿とさせます。
所在地 | 忠清南道論山市魯城面魯城山城キル50
時期 | 1650年(孝宗1)
用途 | 住居
ひっそりと代々受け継がれて来た甕
明齋古宅ではけやきの巨木の下にある数百にのぼる甕が もう一つの魅力を放っています。この甕の中で300年もの 間、代々受け継がれて来た醤油の味には定評があり、現 在では「ジャントクカンジャン」(甕で熟成した醤油)という ブランドで販売されています。
明齋古宅にひそむ科学
明齋古宅の南側の二棟の建物は相当に離れ ていますが、北側の建物はひさしが当たる ほど接しています。これは夏に南風が北の 狭い通路を吹き抜ける間に風速が早まり、 気温が下がるように設計されたもので、北 側に食材を保管する倉庫を設けました。母 屋のテチョンマル(広い板の間)の北側の門 に夏の間に涼しい風が吹いてくるのもこの ためです。




明齋古宅の向かって左側には地域の人材を育てる ために建てられた魯城鄕校があります。孔子をはじ
めとした、五人の聖人の位牌を安置し、毎年陰暦の 2月と8月に地域の儒学者が祭祀を執り行います。
所在地 | 忠清南道論山市魯城面魯城山城キル54
時期 | 1700年頃移転
用途 | 教育、祭祀


魯 のそんさん 城山の麓に位置する明齋古宅や魯城 郷校から徒歩5分の距離に孔子の肖像 画を祀った闕里祠があります。「魯城」 という名称は孔子が暮らした中国の済 南の昔の地名で、「闕里」は孔子が育っ た村の名前です。それゆえ、この一帯は 孔子を慕う儒風が漂っています。2019 年に忠清儒教国際フォーラムに参加す るために台湾から韓国に訪れた孔子の 直系子孫にあたる孔垂長先生がここで 祭祀を執り行いました。祠堂の横には 北斗七星を刻んだ闕里塔と孔子の石造 もあります。
所在地 | 忠清南道論山市魯城面校村キル35
時期 | 1716年(肅宗42))
用途 | 祭祀



「懐尼是非」, 師弟間の不和による西人の分裂
懐 ふぇどく 徳に居住した師の宋 そんしよる 時烈と尼 いさん 山に居住 した弟子の尹拯の間の些細な争いが政治 的な論争にまで発展し、朝鮮王朝後期に 西人が老論と少論に分裂しました。この 事件の後に魯岡書院は少論の政治的な 本拠地となりました。
遯巌書院とともに17世紀の忠清南道を代表する書 院です。老論系を代表する遯巌書院より40年遅く に建てられた魯岡書院は韓国の儒学者を代表す る牛 う げ 渓・成 そんほん 渾の門下生でもあり、娘婿でもあった 八 ぱるそん 松・尹 ゆんふぁん 煌とその息子の尹 ゆんそんご 宣挙や孫の明 みょんじぇ 齋・尹 ゆんじゅん 拯 を祀り、地方の教育を担った少論の伝統を継承し ました。
所在地 | 忠清南道論山市五岡キル56-5
時期 | 1675年(肅宗1)
用途 | 教育、祭祀