
「畿湖」とは京畿道と忠清道を合わせた地域を指します。
畿湖儒学の中心である論山は過去数百年間、ソンビ(儒学者)の本拠地として数多くの優秀な儒学者を輩 出しました。論山の畿湖儒学の代表的家門である光山金氏は性理学の大家の沙 さ げ 溪・金 きむちゃんせん 長生とその息子 である金 きむじぷ 集をはじめ、ここに儒学が始まり、ここで儒学が終わるとされる礼学を集大成した大学者を輩 出しました。


遯巌書院がユネスコ世界文化遺産に指定されたのは建築の卓越した美しさのみ ならず、数百年間、教育、宗教、政治など多様な分野にわたり人々の営みに連綿と 影響を及ぼし続けて来たことが評価されたためです。「遯巌」とは沙 さ げ 溪・金 きむじゃんせん 長生 が官職に就くことを辞退し、自然に親しみ、学問と後進の養成に力を注ぎながら 生涯を過ごしたことを象徴した言葉です。
金長生の父、金 きむげふぃ 継輝が建てた静 じょんふぇだん 会堂には近隣の名望ある家門の子弟が集まり、 学問を研鑽しました。 金長生とその息子の金 きむじぷ 集は講学の伝統を引き継ぎ、礼学 の基本体系を完成させました。遯巌書院は彼らの思想を引き継ぐ、畿湖学派の大 きな拠点になりました。
所在地 | 忠清南道論山市連山面林3キル26-14
時期 | 1634年(仁祖12)
用途 | 教育、祭祀、出版
礼学が追及するもの
金長生が生きた16·7世紀はソンビ が幾度となく内紛に苦しめられ、 更には壬辰朝日戦争(文祿·慶長 の役)もあり、朝鮮王朝の支配体 制が大いに揺らぎました。金長生 と金集は遯巌書院の儒学者とと もに道徳的な観念世界よりは現 実的な経験世界をより重視する、 実践的な畿湖学派の核心となっ た「礼学」を形成しました。
畿湖学派が思索する建物 凝 うんどだん 道堂
遯巌書院の建物の中で最も規模が大きく、 由緒深い凝道堂は儒学の古来の制度に忠 実に従い建てられました。当時建築に対す る眼目とこだわりが相当にあった匠が作り 上げたもので、その美しさは世界文化遺産 にふさわしいものと言えます。



所在地 | 忠清南道鶏龍市沙溪路122-4
時期 | 1602年(宣祖35
用途 | 住居
沙溪古宅
沙溪古宅は朝鮮後期に礼学の大家として知られた 金長生が晩年に下野し、後進の養成に没頭しな がらその生涯を閉じるまで生活した建物です。彼 は息子の金 きむじぷ 集をはじめとして、宋 そんしよる 時烈、宋 そんじゅんぎる 浚吉、 李 いゆて 惟泰など、当代のそうそうたる儒学者を多く輩出 し、畿湖学派の土台を築き上げました。
サランチェ(主人の居間)である隠 うんのんじぇ 農齋は「隠遁しな がら農業を営む家」という意味で、現在は高層アパ ートが林立する大通りにありますが、元々は小さな 丘陵の竹林に覆われた隠遁にふさわしい場所でし た。大きくはありませんが、高い基壇の上に建つ姿 は金長生の品格をしのばせるものがものがありま す。
金長生先生の墓地一帯
그論山市にある金長生先生の墓地は周囲が松林に囲 まれ、光山金氏を中興させた金長生の7代前の祖母・ 陽 やんちょんほし 川許氏をはじめ、一族の墓地や祠堂、碑石などが 集まっています。
所在地 | 忠清南道論山市連山面高井里山7-4
用途 | 追慕、祭祀




竹林書院
金 きむじゃんせん 長生は錦 くむがん 江を見下ろせる黄 ふぁんさん 山に書院を建て後学 を養成しました。竹林書院は金長生が中国の『朱 子大全』の釈宮を模倣して建築を計画したもので、 朝鮮時代の書院建築の典型とみなされています。 論山市の遯巌書院の建物の配置と規模は竹林書 院を見習ったものと考えられます。
竹林書院、臨履亭
所在地 | 忠清南道論山市江景邑金百路20-8
時期 | 1626年(仁祖4)
用途 | 教育、祭祀、休息
竹林書院の右側の竹林にある石段を上って行くと 金長生が建て後学を指導した臨履亭があります。 李 いじゅんふぁん 重煥が『択 てんにじ 里志』を執筆した八掛亭は宋 そんしよる 時烈 が栗 ゆるごく 谷・李 い い 珥を追慕しつつ、当時の学者や弟子 に講義を行った場所として知られています。前の 岩には彼が後学養成の志を込めて刻んだという 「夢 もんぐぇびょく 卦壁」と「靑 ちょんちょあむ 草岩」という刻字があります。
八掛亭
所在地 | 忠清南道论山市江景邑黄山里86
時期 | 1626年(仁祖4年)
用途 | 观景、休息