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ちょうほん 趙憲を訪ねて

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ちょうほん 趙憲を訪ねて

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おくちょん沃川

沃川は儒学者の重 じゅんぼん 峯・趙憲の生き方を体感できる都市です。国王と意見が合わず官職を辞し、忠清北道 の沃川に下った趙憲は人影がまばらな奥まった田舎でソンビ(儒学者)と政治状況を論じ、後学を育成す ることに専念しました。

1592年に壬辰朝日戦争が勃発すると義兵団を構成して戦場に出陣し、清廉潔白 な戦死を遂げました。戦闘で見せた実践的な義理の思想から改革案で提示された経世致用の精神に至 るまで栗 ゆるごく 谷・李 い い 珥の思想を信奉した趙憲は後世の儒学者の模範になりました。

태안읍성

宝物に指定された書堂 おくちょんいじだん沃川二止堂

沃川二止堂は朝鮮王朝中期の性理学者であり、義 兵長でもあった趙憲が近隣の学生を集めて学問を 論じた場所です。その後、宋 そんしよる 時烈が「高山仰止 景 行行止(山が高ければ見上げざるを得ないように 徳行は後世に影響を持ち続ける)」という意味を持 つ『詩伝』の文句の中の二つの「止」の字にちなん で「二止堂」という名を付け、自ら扁額に書しまし た。

高殿の板の間に座って前を悠々と流れる西 そふぁちょん 華川と 山の風景を眺めると朝鮮王朝期の文人たちが学問 のみならず休息を大切にしていたことを垣間見るこ とができます。

書堂建築で初めて宝物に指定された 二止堂

二止堂のように書堂建築で二階建ての楼を設ける例 は極めて珍しく、当時定型化されていた書堂建築の 形式を発展させたという点で歴史、芸術、学問、建築 等、様々な面で価値が高いものと評価されています。 2020年には書堂建築としては初めて国家指定文化財 宝物2107号に指定されました。


所在地 | 忠清北道沃川郡郡北面二柏キル126
時期 | 朝鮮王朝中期
用途 | 教育

태안읍성

義兵とともに戦死した学者 ちょうほん趙憲墓地, ぴょちゅんさ表忠祠(趙憲祠堂), よんもじぇ永慕齋

탄금대토성전경 탄금대토성전경

豊臣秀吉により壬辰朝日戦争が勃発する前、朝鮮王 朝の支配層は日本の動向に対して無関心と無防備 で一貫していました。しかし、師弟関係にあった 栗 ゆるごく谷 ・ 李 い い珥とその弟子の 趙 ちょうほん 憲がただならぬ兆候を察知 しました。趙憲はその以前から国家を救うために上 奏文を絶えず送り続けましたが受け入れられず、官 職を辞し 沃 おくちょん 川に下りました。

趙憲の予測通り壬辰朝日戰爭が勃発するや、彼は 義兵を率いて戦場へはせ参じ、清州城の奪還に成 功しました。しかしその後、錦山で激戦を展開する 最中、義兵とともに殉国しました。

趙憲の遺骸は彼の弟である 趙 ちょうぼむ 範が引き取り、沃川 郡道理洞に埋葬されましたが、1636年に現在の墓 地に移されました。その近くには趙憲の肖像画と位 牌を奉安した祠堂である表忠祠と祭祀を準備する ための永慕齋があります。

趙憲墓地

所在地 | 忠清北道沃川郡安南面道農里山63-1番地
時期 | 1636年(仁祖14)移葬
用途 | 追慕、祭祀

表忠祠

所在地 | 忠清北道沃川郡安南面道農1キル71-1
時期 | 1734年(英祖10)
用途 | 祭祀

永慕齋

所在地 | 忠清北道沃川郡安南面道農1キル71
時期 | 1812年
用途 | 住居

태안읍성

趙 ちょうほん 憲のもう一つの号「後 ふゆる 栗」 後栗堂

趙憲は本人の意見を国王に対しても遠慮なく進言 する原則を重んじるソンビ(儒学者)でした。成均館 で修学し、24歳の時に科挙に及第し官職に就いて 国家政策について建議しました。しかし彼の上奏は しばした国王の怒りを買いました。

結局1584年に彼は官職を辞し、沃 おくちょん 川郡に下り、後 栗精舎(後の後栗堂)という書室を建て、弟子の養 成と学問を磨くことに専念しました。この時から沃 川と趙憲の縁が本格的に始まりました。彼は師の 栗 ゆるごく 谷・李 い い 珥の思想を継承しようと自身の号を「後 栗」と称し、書室の名前も「後栗精舎」としたので す。ここで彼は壬辰朝日戦争が起き、義兵として参 戦するまで学問を錬磨し、後進を養成する重要な 時期を過ごしました。


所在地 | 忠清北道沃川郡安内面桃李キル42
時期 | 1588年(宣祖21)
用途 | 教育、祭祀