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湖西のエリート文化
なんそん琅城八賢

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湖西のエリート文化
なんそん琅城八賢

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ちょんじゅ清州

清州は湖西地方を代表する都市です。「忠清道」という名称の「清」は清州から取ったものです。

朝鮮性理学の中心勢力だった湖西儒学者の学脈は清州一帯の儒学者を中心に形成されました。清州地 域の儒学者を率いた中心勢力である「琅城八賢」とは清州の別称である「琅城」にて生活した8名の儒教 の賢人を示す言葉です。

朝鮮王朝中期の慶州李氏の集姓村(同じ家門の人々が集まって形成された村)である清州市の米 みうぉんみょん 院面一帯 で活動した西 そ げ 渓・李 いどぎゅん 得胤は琅城八賢の中の一人で、清州の儒学者集団の中で中心的な役割を担いまし た。また彼は清州にて畿湖学派が根を下ろす社会経済的な基盤を整え、金 きむじゃんせん 長生の礼学精神を継承した 人物です。

태안읍성

九つの玉のごとく美しい渓谷 おくぁくごく玉華九曲

「野に玉が降り落ちた姿」という意味を持つ玉華 九曲は清州地域のソンビ(儒学者)の理想郷とされ ました。清らかな自然と一体化する哲学の空間であ り、また絶えず自身を切磋琢磨する講学の空間で した。


この地を初めて玉華九曲と名付けた朝鮮王朝中期 の性理学者、西 そ げ 渓・李 いどぅぎゅん 得胤は玉華の美しい自然に 親しみながら修学しました。李得胤は槐 くぇさん 山郡守を 努めていた時、善政を施していると称賛され、彼の 息子と孫もやはり玉華九曲にて清風明月を詠い、 清廉な生活を送りました。/p>


また宋 そんしよる 時烈と彼と親しかった洪 ほんそっき 錫箕は神 そんそんぼん 仙峰の 麓に「後 ふうんじょん 雲亭」という楼亭を建て、風情を詠いまし た。


所在地 | 忠清北道清州市上堂区米院面一帯
時期 | 1609年(光海君1)
用途 | 展望、修養

태안읍성

玉華台に建つ 玉華書院

단양팔경전경

玉華九曲の美しい風景に沿って千 ちょんぎょんで 景台を過ぎる と右側に玉華書院の伝統建築が見えて来ます。 この書院は1717年に西 そ げ 渓・李 いどぅぎゅん 得胤、主 じゅいるちぇ 一齋・ 尹 ゆんすんいむ 昇任、玉 おくけ 渓・朴 ぱくごのぉん 坤元、遯 どなむ 菴・尹 ゆんさそく 師晳の位牌を 奉安するために建てられた祠堂です。

祠堂の前の「主一齋」という扁額が掛けられた建物 の中には1674年に宋 そんしよる 時烈が書した「主 じゅいるちぇちゃむ 一齋箴」や 「玉華台銘」、そして1760年宋 そんふぁんぎ 煥箕が書した「主一 齋重建記」が掛けられています。

女性哲学者の允 ゆんじだん 摯堂が幼少期を過ごした玉 華台

玉華台にて10代を過ごした允摯堂任 いむし 氏は朝鮮王朝期最 高の女性性理学者で、女性ソンビ(儒学者)を代表する人 物です。彼女が9歳の時に父親が亡くなり、家族全員で 清州の田舎の玉華に引っ越しました。ここで兄の鹿 のんむん 門・ 任 いむそんじゅ 聖周とともに学問を研鑽し、深い哲学的境地に到達し ました。


所在地 | 忠清北道清州市上堂区米院面玉華2キル50
時期 | 1717年(肅宗42)
用途 | 教育、祭祀

태안읍성

先賢の足跡を訪ねる まんぎょんじょん万景亭,ちゅうぉるじょん秋月亭, せしむじょん洗心亭

제천박약재전경제천박약재전경

玉華書院を過ぎて玉華台に向かう小道を進んでい くと清明な秋月を具象化した秋月亭、世界の全ての 景色を観望できるとされた万景亭、気持ちを磨き洗 い流すという意味が込められた洗心亭があります。
官職を辞し山川に留まったソンビ(儒学者)たちが清 らかな自然と一体化する哲学的空間であり、絶えず 自身を切磋琢磨し、学問にまい進した空間でした。

万景亭

| 忠清北道清州市上党区米院面玉華里132-2
時期 | 朝鮮前期
用途 | 展望、休息

秋月亭

| 忠清北道清州市上党区米院面玉華里137-2
時期 | 1609年(光海君1)
用途 | 展望、休息

洗心亭

| 忠清北道清州市上党区米院面玉華里137-1
時期 | 1646年(仁祖24)
期 | 1646年(仁祖24) 用途 | 展望、休息