
白頭大幹(白頭山から智異山へ走る山脈)と錦南正脈(珠華山から扶蘇山へ走る山脈)の間を青い錦 くむがん 江が蛇 行する錦 くむさん 山は「錦 くむすかんさん 繡江山」を略して付けられた地名にふさわしく、秀麗な景観を誇っています。忠清南道 の最高峰である西 そでさん 台山がある錦山は70%が山地であり、その地形的特性により人参の産地として知られ ています。
南部地方に抜ける高い関門であるため百済と新羅、高麗の太祖王 わんごん 建と後百済が覇権を争う激戦地になり ました。このため錦山には七 ちるべくいちょん 百義塚、梨 いちてちょぷち 峙大捷址、六 ゆくぺくこじ 百高地戦勝塔など忠節に関する遺跡が大変多くあ ります。


義兵長の趙 ちょほん 憲は壬辰朝日戦争が勃発するや1700 名を超える義兵を率い、霊 よんぎゅ 圭大師に加勢して清州 を奪還しました。続いて錦山にて日本軍を食い止 めるために、残った軍勢700名と錦山戦闘を勇敢 に戦い、戦死しました。その後趙憲の弟子たちが 戦死者たちの死体を集めて、一つの墓地としまし た。これが七百義塚で、後に戦死者をたたえる「重 峰趙憲先生一軍殉義碑」と従容祠が建てられまし た。
しかし、植民地期に日本人たちが七百義塚と従容 祠を撤去し殉義碑を爆破し、その土地を売り払って しまいました。七百義塚と従容祠は解放後の1952 年に郡民の募金で再建されました。爆破された 殉 義碑については村民たちがその残骸を集め、近所 の山に隠して保管していましたが、1971年にその破 片をつなぎ合わせて、復元しました。
所在地 | 忠清南道錦山郡錦城面義総里216
時期 | 1592年(宣祖25)
用途 | 墓地、追慕、祭祀


豊臣秀吉が引き起こした壬辰朝日戰爭の最中、 朝鮮軍が内陸地で最初に勝利した梨峙大捷は湖 南地方を守ったのはもちろん、その後の清州城戦 闘、晋 ちんじゅてちょぷ 州大捷、そして幸 へんじゅてちょぷ 州大捷の勝利へとつなが る重要な戦闘でした。
くぉんゆる權慄とふぁんじん黄進将軍は日本軍2万名に対し1500名の軍 勢で必死に戦い、大勝を収めました。この戦闘は 朝鮮官軍と義兵の士気を高めると同時に壬辰朝日 戰爭の形勢を逆転させる重要な転換点として評価 されています。
所在地 | 忠清南道錦山郡珍山面大屯山路191