
忠清南道保寧市は西海と人々、山、そして平野が美しく調和をなす名勝として知られています。子孫が万 代にわたり平穏な生活を享受できる祝福の地であるとして「万世保寧」と呼ばれてきました。 保寧は優れた石材の産地でもあり、韓国で最上級の硯を生産して来ました。昔は中国へ最短距離で行け る航路が開かれ、先進文物が流入する入口にもなりました。


花巌書院がある場所は土亭・李之菡の出生地で、 彼の業績を記念し「土亭村」と呼ばれています。
李之菡は鄭 ちょんもんじゅ 夢周や鄭 ちょんどじょん 道伝を育てた高麗王朝末の大 学者だった牧 もぐん 隠・李 いせく 穡の6代目の子孫です。彼は当 時卓越した学者だった花 ふぁだむ 潭・徐 そきょんどく 敬徳の下で学問を 研鑽し、易学、数学、医学、天文学、地理学のみな らず、占術や風水にまで精通しました。
李之菡は名門士大夫の家門出身で官職にありなが ら、みすぼらしい服を着て、鍋を帽子の代わりにし てをかぶりながら出歩くなど、風変わりな行動をと り、人々の注目を引いた奇人として知られています。 その背景には社会の底辺にいる貧しい民衆をいた わろうとする思いがあったと考えられます。
<新年の占い、とじょんぴぎょる『土亭祕訣』>
李之菡は未来を占い予言する特殊能力を持つ人 物であるとうわさが立ち、年初に彼にその年を占 ってもらうために訪ねて来る人が後を絶ちません でした。そこで『土亭祕訣』を著したと伝えられま す。しかし、『土亭祕訣』の著者が本当に李之菡 であるかについては学界で論争が続いています。
所在地 | 忠清南道保寧市青蘿面竹城路411
時期 | 1610年(光海君2)
用途 | 教育、祭祀


ぽりょん保寧の忠清水営城は朝鮮王朝期の3大水営城の一 つに数えられ、西海岸の防禦機能を担った重要な 要衝地で、他の水営城の遺跡に比べ地形や景観が 良好に保存されています。
水営城の4つの門のうち、唯一残っている虹 ほんいぇむん 霓門を 経て水営城の最も高い丘に登りますと広々とした 西海の光景を一望できる永 よんぽじょん 保亭が立っています。こ こには多くの詩人や文人が訪れ、数多くの詩文を 残し、中には朝鮮において最高の楼亭であると褒 めたたえたものもあります。
所在地 | 忠清南道保寧市鰲川面蘇城里661-1
時期 | 1509年(中宗)
用途 | 防禦、行政


邑城は倭寇の侵略に備え、海岸沿いの地に集中し て築城され、高麗王朝末期から朝鮮王朝初期にか けて最も盛んに築かれました。藍浦邑城もこの時 期に築かれた代表的な邑城の一つです。植民地期 に無分別に多くの文化財が破壊された中、生き残 った数少ない邑城です。朝鮮王朝初期の邑城の姿 をよく残しており、文化遺産として高く評価されて います。
朝鮮王朝期末には高 こじょん 宗が全国の邑城と官庁のそば に教育機関の設立を命じたため、その名残で現在 藍浦邑城の敷地にも藍浦小学校があります。元々 学校の敷地には邑城の客舎が残っており、それも 教室に活用されていたのですが、現在は取り壊さ れ現代的な校舎になっています。
所在地 | 忠清南道保寧市藍浦面邑城郷校キル133
時期 | 1413年(太宗13)
用途 | 防禦、行政

藍浦邑城を統括した藍浦県監は外敵に対する防備 の最前線司令官であり、国王の代わりに国防と統 治理念の実践において先頭に立ちました。更には 邑城の外には国家アイデンティティを確立するため の藍浦郷校を建てました。藍浦郷校は儒学者を育 成するための保 ぽりょん 寧地域の最高教育機関でした。
大成殿には統一新羅時代最高の文章家だった 孤 こうん 雲・崔 ちぇちうぉん 致遠の位牌が祀られています。崔致遠は 保寧の麦 ポリソム 島と聖 そんじゅさ 住寺を往復しながら、岩に詩文を 刻んだことが伝えられています。
所在地 | 忠清南道保寧市藍浦面邑城郷校キル133
時期 | 1413年(太宗13)
用途 | 教育、祭祀