
韓国人のDNAに残っている儒教的価値観は学問を追求し、生活と自然を芸術に昇華し、死を恐れない 勇気として現れます。このような価値は男女に区別なく実践されて来ました。天安、牙山、礼山、洪城で出 会う独立運動家と実学者の痕跡をたどると、これまで気付かず、あるいは忘れ去られていた実践的な生 き方や信念に触れることが出来ます。儒教文化には息づく人が存在しました。それは現在や未来におい ても変わりありません。


柳寛順烈士は梨 いふぁ 花学堂在学中にソウルで三一独立 運動が勃発するや、故郷に戻り1919年4月1日にア ウネ市場で万歳運動を起こしました。この事件で 投獄された烈士は監獄でも万歳運動を続け、日帝 の過酷な拷問に苦しみ、獄中で殉国しました。
アウネ市場の向かいにある追慕閣と柳寛順烈士記 念館には烈士の生涯を説明した展示物と映像を通 じてその愛国精神を実感できます。
烈士の父親である柳 ゆじゅんぐぉん 重権は民族啓蒙運動家 として郷里の有志とともに教会を建てて、啓 蒙運動を展開しました。柳寛順烈士はこのよ うな父親の下で育ちました。生家にはアウネ 万歳運動を準備する当時の様子が再現され ています。
所在地 | 忠清南道天安市東南区並川面柳寛順キル38
時期 | 1972年
用途 | 祭祀、追慕

李東寧先生の生家址は先生が生まれてから故郷を 離れソウルへ向かうまで、17年間生活した所です。 韓国併合以来、韓国の主権を取り戻すために生涯 を独立運動に捧げた李東寧先生は大韓民国臨時 政府の国務領、首席、国務総理、大統領職務代 理、国務委員などを歴任したリーダーでした。祖国 解放のために闘争しましたが、1940年に中国の四 川省で亡くなりました。
石 そ ご 吾李東寧記念館では先生の毛筆書、自筆の書 簡、臨時政府文書、肖像画、写真などの遺品も展 示されており、先生の生涯と若者に対するメッセー ジを込めた映像も鑑賞できます。
所在地 | 忠清南道天安市東南区木川邑東里4キル36
時期 | 1869年
用途 | 住居
住民のための小さな憩いの場、 光 くぁんみょんちぇくばん 明冊房
生家の小さな板の間には先生が1924年の秋に 上海にて祖国解放への願いを込めて書いた 「光明」にちなんで名付けられた小さな図書館 「光明冊房」があります。彼の独立運動一代記 を描いた漫画をはじめ、多様な本を自由に閲覧 できる、市民のための憩いの場です。


朝鮮の実学者・洪大容は朝鮮において初めて地球が自 転するという地動説を主張しました。地球が宇宙の中心 ではなく、宇宙の星々はそれぞれ独自の世界を持ち、絶 えず広がっているという無限宇宙論を唱えました。また 月食で月をさえぎる影が丸いのは地球が丸いからであ るという地球球体説も唱えました。
天安洪大容科学館では先生の生涯と業績をたたえる洪 大容テーマ館をはじめ、彼が建てた韓国史上初の私設 天文台である籠 のんすがく 水閣を再現し、当時の科学技術を紹介 しています。
所在地 | 忠清南道天安市東南区修身面長山西キル 113(洪大容科学館)
時期 | 1857年
用途 | 住居




忠武公李舜臣は豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰朝日戰 爭)を撃退した英雄であるとともに、母親に対する 思いを込め、陣中でしたためた『乱 なんじゅんいるぎ 中日記』(国宝 76号)の著者として、「忠」と「孝」の象徴的な人物 です。史跡155号は李舜臣が若かりし頃に住んでい た家があった場所で、現在は祠堂の顕忠祠と結婚 後に住んだ家や武芸を研鑽した弓場、家族の墓地 などが集まっています。弓場の近くには樹齢530年 にもなる二つの銀杏の巨木が忠清南道の保護樹に 指定され管理されています。
粛宗の代に建てられ、国家の保護を受けてきた顕 忠祠は興 ふんそんてうぉんぐん 宣大院君によって一時的に廃されました が、1905年に結ばれた日本との乙 うるさ 巳条約に激怒 した儒学者たちが顕忠祠の遺墟碑を建てました。 植民地期には顕忠祠の敷地と忠武公の墓が競売 に掛けられ日本人の手中に入りかけたのですが、 地域住民と志のある人が募金を募り、1932年に顕 忠祠を再建し、忠武公の肖像画を奉安しました。 1966年には忠武公の誕生日の4月28日を記念し て、政府主催で祭祀を執り行い、聖域として守られ ています。
所在地 | 忠清南道牙山市塩峙邑顕忠祠キル126
時期 | 1706年(粛宗30)
用途 | 祭祀、墓域




朝鮮王室 唯一の烈女門の主人公 和順翁主
金正喜が育った秋史古宅には曾祖 母の和順翁主の節操を伝えるエピ ソードが残っています。夫の金漢藎 が夭折するや、彼女は父親の英祖 が引き止めたにもかかわらず、水を 一口も飲まず断食しました。結局14 日後に彼女も亡くなりました。英祖 の後を継いだ正祖は和順翁主の精 神をたたえ、烈女旌門(功績をたた えるための赤い門)を下賜しました。 これは朝鮮王朝で唯一の出来事で した。
秋史・金正喜は朝鮮後期の実学者であるとともに、 当時の文化芸術の代表格だった書芸の第一人者として 「秋史体」と呼ばれる独創的な書体を編み出し、書 芸の最高の境地に到達した人物です。
金正喜が幼少期に芸術に対する理解を深めながら育 った秋史古宅は金正喜の曽祖父である金 きむはんしん 漢藎が英祖 の二女の和 ふぁすんおんじゅ 順翁主と結婚した後に建てた田舎家です が、王室宮闕の伝統様式が取り入れられています。
所在地 | 忠清南道礼山郡新岩面秋史古宅路2611
時期 | 朝鮮後期
用途 | 祭祀、墓域



日本軍との青山里戦闘の英雄である白冶・金佐鎮 将軍が生まれた場所です。将軍は15歳の時、この 生家で奴婢文書を燃やし、彼らに田畑を分け与え ました。18歳の時には現在の葛 かるさん 山中高等学校の位 置に湖 ほみょん 明学校を建て、新学問の教育にも力を注ぎ ました。
所在地 | 忠清南道洪城郡葛山面白冶路546番キル12
時期 | 植民地期
用途 | 住居、祭祀、追慕
金佐鎮将軍は1910年代の代表的な秘密結社だっ た大韓光復会に加わり軍資金を集めた後、満州 に渡り抗日闘争に備えました。1919年には北路軍 政署司令官に推戴され、独立戦争を展開する中、 1920年10月に青山里一帯で約10日間に9度も日本 軍を撃退し、独立運動史上最大の成果をあげまし た。
金佐鎮将軍の生家を復元した後、白冶記念館と彼 の独立運動精神をたたえるための祠堂である白冶 祠が建立されました。